冷静と情熱のあいだで

あっちこっち言っている・行っているブログです。

何で自分だけ。。と思った時、自分のせいだからだ。。と思う余地は多いにある

今週もやっと仕事が終わりましたね、サラリーマンの皆さま

 

土日のために仕事をする

 

それがサラリーマン

 

この仕事を適当に乗り越えたら、楽しい自由な土日が待っている

 

それがサラリーマン

 

時間と心を売って、お金を得ている

それがサラリーマン

 

 

サラリーマン哀歌が始まってしまいました

 

 

 

しかし、サラリーマンであることをを選んでいる主体は誰なのか?

 

私であり、あなたです。

 

 

自分の脳が機能しているのであれば、

 

あなたは全能の神です。

 

 

なぜなら、今生きているあなたの世界は、

 

あなたの脳がイメージしているものだから。

 

 

物事には意味はない、といいます。

 

 

意味というのは、人の思考の上になりたっているので、

 

人の個人の考えなしに生まれる意味などありません。

 

みんなが自分のイメージに、自分流の意味付けをしているに過ぎません。

 

 

であるならば、

 

自分の人生は自分のイメージ・意味付けによって成り立っている、としか言いようありません。

 

 

これに言い訳の余地はありません。

 

 

全部自分のせいだ。

 

 

世界を変える力を自分は持っている、という事にもなります。

 

世界は基本的に自分の世界観で成り立っている。

 

自分の認識で成り立っているのです。

 

 

であるならば、自分の認識の楽しさを最大化したい。

 

どうせなら。

人生はつまらない

人生はつまらない

 

今日もつまらなかった

 

もう1月は終わろうとしている

 

今日もしょうもなく終わってしまった

 

私はしがないサラリーマンだ

 

思うような生活も金も得ていない

 

何を人生の楽しみにすればいいのだろう?

 

分からない

 

何が人生の楽しみなのか分かっていない

 

でも今死んだら後悔する

 

そう思うということは、そう思う理由があるはずだ

 

なぜ、今死んだら後するんだろうか

 

その理由を考えたら、生きる理由が分かるかもしれない

 

今日もつまらない一日だった

 

だけど、このままじゃ死ねない

言葉は無力だ

今日もしょうもない一日が過ぎていく

 

そんなしょうもない一日をちょっと愉快にするような、

 

とても素敵なフレーズは、とても溢れている

 

でも、それらは人の心に響いても、本当に残ることはあまりない

 

どれだけ人の心に響いても、それはその人の言葉ではない

 

痛みをもってしか、本当に心に刻むなんてことはないだろう

 

そうであるなら、心に響く言葉というのは、浸るためだけの言葉だ

 

浸っただけの言葉は、寝て起きたら大体忘れている

 

もう、ぶつかって傷ついて、傷の痛みを知ることしたないだろう

 

そうであるなら、学ぶためには傷を作る経験をするしかない

 

誰も傷など負いたくなどない、もちろん致命傷はいけない

 

しかし、無傷のまま、安全シェルターの中で死んだらどう思うだろう

 

傷を作るか、逃げるか

 

二択はどちらにしても痛みを伴っている

 

 

全部自分に責任があるなんて事は無い

最近他責にするな、という言葉があります。

 

全部何かしら自分が招いたものだ。

 

という訳です。

 

しかし、自分達の思い通りになる事が

どれくらいあるでしょうか?

 

ほとんどないのではないでしょうか?

 

それにも関わらず全部自分のせいだと言うのは、とても酷だと思います。

 

一方で、全部運命でそうなるのだからもう仕方ない。諦めよう。

 

というのも頂けないと思います。

 

これはもう、運命もありますが、自分で何とか出来る部分もあると思います。

 

それなのに、片方に寄るのは、文字通り片寄っているとおもいます。

 

人生は運命と自分の責任で成り立っているのなら、運命も受け入れつつ、責任を持てる範囲は持っていきたいです。

 

 

 

 

 

自分の人生はあと何年だろうか?

気づいたら今年ももう終わりですね。

 

年末になると、1年でやり遂げた事がいかに少ないかを痛感します。

 

しかし、いつも何が出来て何が出来なかったのか明確になっていません。

 

なぜなのか?

 

そもそも計画を立て振り返る、という事をしていないからです。

 

ただ過ぎていく毎日にかまけていると飛ぶように時間が過ぎ、

 

気づいた時には恐ろしいほど何も出来ていないのです。

 

昔話の浦島太郎は、さほどフィクションではないのではないでしょうか。

 

ただ惰性で日々を過ごすことはとても簡単です。

 

私は20代をただ惰性で過ごしてしまい、そのツケが今回ってきています。

 

ツケが溜まっていることは認識していながら、その対策が出来ていないのです。

 

そもそも計画を立てようとしていなかったことが根本の問題です。

 

では、なぜ計画を立てようとしなかったのか?

 

計画を立てるという行動をスケジューリングしていなかったからです。

 

では、なぜ計画を立てるという行動をスケジュールしていなかったのか?

 

この一年で何を成し遂げたいのか、ハッキリしていなかった為だと思います。

 

では、なぜこの一年で何を成し遂げたいのか、ハッキリしていなかったのか?

 

人生で何を成し遂げたいのかがはっきりしていないからでしょう。

 

では、なぜ人生で何を成し遂げたかがハッキリしていないのか?

 

自分の人生について考えていないからでしょう。

 

では、なぜ自分の人生について考えていないのか?

 

人生の短さについて実感が足りなかったからでしょう。

 

 

トヨタみたいになぜなぜ5回してみました。

 

結果、”人生の短さの実感が足りない”のが根本課題だという結論になりました。

 

では、その根本課題に対して、どのような打ち手をすればよいのでしょうか?

 

”人生の短さの実感が足りない” とはどういうことか?

 

もっと具体的に言い換えてみた方がいいのかもしれません。

 

私は今30歳過ぎ。

 

仮に80歳まで生きるとして、あと50年もない。

 

仕事を出来るのは65歳までとして、あと35年もない。

 

仕事を出来る年齢が、人生を活発に過ごせるとしたら、

 

ざっくりいって30年くらいしかありません。

 

これまで23歳から働き始め、ぼんくらに過ごしてきた10年はあっという間でした。

 

同じような10年が3回過ぎてしまうとしたら、後悔必死です。

 

計画どおりに人生が進むものではありませんが、やはり計画を立てるというのは、

 

自分の人生の理想を考えることになり、真剣に自分の人生について考えることになるので、必須の事だと思います。

 

年末年始はもう少し考えてみたいと思います。

 

アクセルを踏む勇気

自己啓発系の本を読んでいても大体書いてあることは同じだ。

 

結局原理原則はたいして多くない。

 

原理原則と良い習慣の基礎を覚えて継続するだけだ。

 

いやあとはアクセルを踏む勇気と根気が必要になるが。

 

いずれにしても、覚えることはたいして多くない。

 

結局、アクセルを踏むのが怖いか、根気が無いだけだろう。

 

命さえ残っているのであれば、あとは自分がアクセルを踏みたいかどうか考えるだけだ。

 

出来るだけアクセルは柔らかくしておきたい。

 

早く踏んでおいた方が比較的柔らかいはずだ。

夢を持つ

夢を持つことってどうだろうか?

 

先日私はドリーマーと言われました。

 

茶化し気味に。

 

確かにロマンチストな所がある。

 

しかし白けながら生きてたら、そのうちシケたり干からびたりしそうだ。

 

夢持ったっていいじゃん。

 

夢があったっていいじゃん。

 

今日は少し夢に近づいたかもしれないとか思いこめるだけで、少し楽しくなる。

 

夢は今目の前にないものだから妄想だけど、妄想って楽しいですよね。

 

宝くじ当たったらって想像するだけで誰しも楽しいですよね、そういう感覚が持てるような夢を持ちたい。

 

考えただけで胸の辺りが動き出すような。